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9/22(木)~24(土)会津まつりが開催されました!



今年で70回を数える「会津まつり」が、9/22(木)~24(土)の3日間に渡り開催されました。


9/23(金祝)に行われる、会津まつりのメインともいえる「会津藩公行列」は、新型コロナウィルスの影響で、2020年は中止、2021年は規模が縮小されたため、街中で開催されるのは3年振り。お侍やお姫様など時代衣装姿の約500人の参加者が市内を練り歩きました。


久し振りの会津藩校行列だったので晴れてほしかったのですが、行列が始まる10:30の少し前から小雨が降り始め、参加するみなさんは透明のビニールポンチョを着ていました。


そして、大河ドラマ「八重の桜」からもう10年以上経つけど、綾瀬はるかさんが3年振りに参加してくれました。綾瀬さんの写真もご紹介したかったのですが、私が撮影していた場所からは全く見えず、写真は撮れませんでした。


ということで、少しですが会津藩公行列の様子をご紹介します。


トップの写真は会津若松市長の室井 照平さんで、徳川3代将軍家光の実弟にあたり、会津領内の支配構造を確立した「保科 正之」の役です。



三日月の兜と右胸の眼帯、言わずと知れた戦国の武将 伊達政宗は、葦名氏を滅ぼし会津を支配下に置きました。しかし、全国の支配を決定的にしていた豊臣秀吉に従い、陸奥国岩手山(宮城県)へと移ったため、伊達政宗の会津支配は1年ほどで終わりました。



戦国時代に会津若松の基礎を作ったのが蒲生氏郷(がもう うじさと)です。鶴ヶ城の築城とともに城下を開発・整備し、産業・商業の振興を図りました。故郷の近江国蒲生郡の「若松の森」にちなんで町の名を黒川から若松へと改めました。「銀鯰尾兜(ぎんなまずおかぶと)」と呼ばれる兜をかぶっています。



幕末の動乱期、会津松平藩最後の藩主「松平 容保(まつだいら かたもり)」です。

京都守護職を命じられるなど、徳川幕府からの信頼は厚く、京都の治安維持に勤めましたが、戊辰戦争で敗れ幽閉されました。のちに家名再興が認められ、晩年は日光東照宮の宮司となりました。



白虎隊は16歳~17歳の少年で編成されていました。

戊辰戦争の戦場が会津に移り、戸ノ口原の戦いに出陣しますが戦いに敗れます。敗走する途中の飯盛山で炎と黒煙に包まれた鶴ヶ城を目の当たりにし全員が自決しました。1人だけ助かったことにより、悲運が後世に伝えられました。



奴隊(やっこたい)は参勤交代の大名行列で、奴隊が藩ごとに特徴ある格好や家紋が入った道具を持ち歩き、どこの藩なのか分かるようにしていました。

毛槍を投げ合ったり、独特の歩き方、掛け声、所作などで沿道の民衆を楽しませていたそうです。



京都を警備する会津藩御預の壬生浪士組が前身となり「新選組」が編成されました。

近藤勇をはじめ、土方歳三、芹沢鴨、斎藤一、沖田総司など、幕末の志士の中で最も有名ともいえる侍たちの部隊。会津若松市内の天寧寺に隊長の近藤勇の墓、阿弥陀寺に斎藤一(藤田五郎)の墓があります。





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